日本の伝統文化を代表する「ねぶた祭り」は青森が誇る一大イベント

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ラッセラー、ラッセラー」と掛け声を上げ、跳人(ハネト)と呼ばれる踊り子たちが跳ね踊る「ねぶた祭り」。日本の伝統文化は数多く存在する中で、青森が誇る一大イベント。毎年8月2日~7日に開催され、全国から約300万人の観光客が訪れる。「ねぶた祭り」の歴史は古いがその起源は定かではない。享保年間(1716年~1736年)の頃、油川町付近で弘前のねぷた祭を真似て灯籠を持ち歩き踊った記録が残っている。

 古い歴史を誇る「ねぶた祭り」どこの小路を観られた

当時の「ねぶたは」は、京都の伝統行事である祇園祭の山車に似ていたようだ。現在の「ねぶたは」に多く見られる歌舞伎などを題材にした灯籠(ねぶた)が登場したのは、平民芸術が爛熟期を迎えた文化年間当たり。当時は車で引く方法もあったようだが、ほとんどは担ぎ「ねぶた」だったようだ。その当時は「どこの小路を見ても、ねぶたがゆれていたもんだス。言いかえればどんな小路っコへども入って行けだ。町の隅っコから隅っコまで祭り気分で、今のように特定のコースを時間まで決められていた。「ねぶたは」見せるためにやるのではなくて、真に楽しかったスナ」 当時のねぶた師はこのように語っている。

 明治時代と戦後には禁止されたいた時期もあった

明治時代に入ると「青森ねぶた」は一層大型化し、明治3年には浜町の「ねぶた」は、高さ十一間のもあり百人で担いだと伝えられている。約20mもある高い「ねぶた」をどのように担いだのか観てみたかった。その高い「ねぶた」は4kmも離れた所から見えれたらしい。しかし明治6年に青森県令(今の知事)菱田重喜が、地方の旧習を悪習と決め付け、「ねぶた」を始め盆踊りなどは罷りならんと、禁止令を出した。明治15年に解禁されたが、「ねぶた祭」は9年間も禁止された。大正末期から昭和にかけて仮装(ばけと)が大流行した。戦災を受けたは青森市は昭和20年には中止されたが、翌21年には油川や旭町で復活した。進駐軍の顔色を見ての運行だったといわれてる。

 立体歩道橋で「ねぶたは」の高さを制限されたまま

しかし青森市内に立体歩道橋が各所にできると「ねぶたは」は高さの制限を余儀なくされた。高さは現在の高さになったが、「ねぶたは」が運行される所は、青森市内にはほとんどが撤去されが、「ねぶたは」の高さはそのままになっている。立体歩道橋が無くなった現在、「ねぶたは」の高さを制限を外し、昔の高さを誇った「ねぶたは」に戻してもいいのではないか。また一時は「カラス」と呼ばれる集団が「ねぶた祭り」を妨害した時期もあったが今では「カラス」の姿も消え、ぞもりが誇れる
イベントになった。

 跳人のダラダラ歩きは見っともない。何か方法を…

著者は「ねぶた」が好きで、過去数え切れないほど見物に云ったものだ。しかし跳人が疲れるのは分かるが、あまりにもダラダラと歩いてる光景は感心しない。疲れるのであれば、グループに分け順番に跳ねればいいのでは…。以前は青森の舞踊協会が整然と列をなし、跳ねるのではなく、独自の踊りで行進していたはずだ。跳人には何か方法があるはずだ。何しろ「ねぶた」は全国に誇れるイベントなっているので、「ねぶた」に拘わる人達は考える時ではないか?。

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